音楽と脳
モーツァルト効果

よくモーツァルトの音楽は1/fゆらぎが現れる胎教にいい音楽だなんて話を耳にします。
母親がリラックスをすることで胎児にもいい影響があるということですね。
そんなまことしやかに囁かれるモーツァルト効果ですが、実際にあの有名な科学誌ネイチャーでその研究結果が取り上げられたことがありました。
モーツァルトの『2台のピアノのためのソナタ ニ長調』を聴かせた学生、他の音楽を聴かせた学生、何も音楽を聴かせなかった学生でテストを行ったところ、モーツァルトの音楽を聴いたグループが高い成績を収めたのです。
このモーツァルト効果の発表は大きな論争を巻き起こすこととなります。
実際に効果があるという声、効果はないという声、モーツァルトに限らず音楽全般にその様な力があるという声・・・
研究はさらに進み、『2台のピアノのためのソナタ ニ長調』を聴かせたラットが他の曲を聴かせたラットよりも早く迷路を抜け出すという結果から、モーツァルトの楽曲は脳を直接刺激しているという説も出ました。
この激論は現在でも収束の兆しを見せませんが、モーツァルトの音楽が耳を伝って脳を刺激する以上、何かしらの影響を与えていることは明らかです。
そもそも1/fゆらぎなんてものを知らないモーツァルトがなぜ、そのような作品を作曲することができたのでしょうか。
天才と言われるモーツァルト、その何が天賦の才なのかというと、音楽を通して自身の脳を最高に悦ばせる方法を知っていたということなのではないでしょうか。
そこにはどんな打算的な発想も他者視線もなく、一点の曇りもない世界だからこそ、何の邪魔立てを受けることなく自身の最も深い所へ到達できるのかもしれません。
そのような基準で考えてみると、誰しもが名曲を作曲できない理由として、脳の満足度が浅いか自身の最も深い所までいく途中で何かしらの障害にぶつかっていると考えられます。
脳の満足度が浅いという表現が正しいのかは分かりませんが、芸術家は得てして内にこもるという印象があります。
他者との関わり合いの中では、公然のルールというものがありますので、例えば会話の最中で受け取った言葉を元に1時間推敲し、返事を投げるということはできません。
ボールを受け取ったら相手にリズム良く返球するのが会話です。
しかし、自分との対話となれば公然のルールというものは存在しません。
何時間をかけて考えを巡らせても、誰も何も文句は言いません。
内にこもることで他者との関わり合いという面ではデメリットがありますが、自身の深みを出す一助になっていると考えられます。
ただどんなに深みが出たとしても、自身がその最深部へ到達できなければ、何の意味もありません。
また芸術家という存在への一般論とはなりますが、時に子供っぽかったり、変人というレッテルを貼られてしまっている芸術家も少なくないように思います。
変人というのは一般という基準があって、そこから逸脱した人を定義する言葉であり、良い悪いの二元論的な話ではありません。
通常、変人に対しての一般という言葉は、多くの人間が摩擦を生じることなく生活する為に形成された社会通念を指すことが多いと思います。
幼少期から何年にも渡って教育を受けることで、人は他者との関わり合いやこの社会通念と呼ばれるものを学んでいきます。
もし、そんなことはお構いなしに自身の欲するものに純粋に向き合う人間がいたら、教育は社会が求める形に人間を矯正し社会へと送り出すでしょう。
しかし、その中のほんの一握りの人間は矯正を拒絶し、自身の形を保ったまま社会へ出ていきます。
これは社会の中では異形の者であり、変人と呼ばれる存在になっていきますが、この変人と呼ばれる人たちは自分の欲するものと純粋に向き合ってきた為に、一般と呼ばれる人よりも自身の深部に到達するクリアな道を持っています。
脳は悦びを求めます。
言葉を知る者は言語で相手に何かを伝えることが出来るように、作曲家は音楽を言葉とすることが出来ます。
先の2つの条件を満たす人が音楽を用いて脳を悦ばせるには、際限まで広がった深部の底の底まで到達する音の連なりを譜面に起こし、それを現実世界にある楽器というもので再現するだけです。
『芸術は二本足で立てるのか』で言及した通り、音は音として存在する為に必ず音色を必要とするので、作曲家が音を想起した時には既に何かしらの楽器によって、その音は色付けられているはずです。
また、音の連なりは当然線状のものではなく、音の重なり、リズムなど立体的なものとして、自身の最深部へと向かって太く、強く進んでいきます。
作曲家が自身の最深部を強く刺激された時に、その作品は名曲への資格を手にしてこの世界に生み落とされるのでしょう。
残された手紙や逸話から今日語られる、モーツァルトの性格を考えると、自身の欲するものに従順な印象を受けます。
そんなモーツァルトであったからこそ、自身の最深部にクリアに届く音が溢れていたのではないのでしょうか。
天才モーツァルトとは違えど、我々も同じ脳を持つ人間です。
天才を満たす音楽が、我々に何かしらの影響を与えるということはまったく考えられないことではありません。
効果は15分程しか持続しないということですが、『2台のピアノのためのソナタ ニ長調』を聴いてモーツァルト効果が現れるか、実験してみてはいかがでしょうか。
母親がリラックスをすることで胎児にもいい影響があるということですね。
そんなまことしやかに囁かれるモーツァルト効果ですが、実際にあの有名な科学誌ネイチャーでその研究結果が取り上げられたことがありました。
モーツァルトの『2台のピアノのためのソナタ ニ長調』を聴かせた学生、他の音楽を聴かせた学生、何も音楽を聴かせなかった学生でテストを行ったところ、モーツァルトの音楽を聴いたグループが高い成績を収めたのです。
このモーツァルト効果の発表は大きな論争を巻き起こすこととなります。
実際に効果があるという声、効果はないという声、モーツァルトに限らず音楽全般にその様な力があるという声・・・
研究はさらに進み、『2台のピアノのためのソナタ ニ長調』を聴かせたラットが他の曲を聴かせたラットよりも早く迷路を抜け出すという結果から、モーツァルトの楽曲は脳を直接刺激しているという説も出ました。
この激論は現在でも収束の兆しを見せませんが、モーツァルトの音楽が耳を伝って脳を刺激する以上、何かしらの影響を与えていることは明らかです。
そもそも1/fゆらぎなんてものを知らないモーツァルトがなぜ、そのような作品を作曲することができたのでしょうか。
天才と言われるモーツァルト、その何が天賦の才なのかというと、音楽を通して自身の脳を最高に悦ばせる方法を知っていたということなのではないでしょうか。
そこにはどんな打算的な発想も他者視線もなく、一点の曇りもない世界だからこそ、何の邪魔立てを受けることなく自身の最も深い所へ到達できるのかもしれません。
そのような基準で考えてみると、誰しもが名曲を作曲できない理由として、脳の満足度が浅いか自身の最も深い所までいく途中で何かしらの障害にぶつかっていると考えられます。
脳の満足度が浅いという表現が正しいのかは分かりませんが、芸術家は得てして内にこもるという印象があります。
他者との関わり合いの中では、公然のルールというものがありますので、例えば会話の最中で受け取った言葉を元に1時間推敲し、返事を投げるということはできません。
ボールを受け取ったら相手にリズム良く返球するのが会話です。
しかし、自分との対話となれば公然のルールというものは存在しません。
何時間をかけて考えを巡らせても、誰も何も文句は言いません。
内にこもることで他者との関わり合いという面ではデメリットがありますが、自身の深みを出す一助になっていると考えられます。
ただどんなに深みが出たとしても、自身がその最深部へ到達できなければ、何の意味もありません。
また芸術家という存在への一般論とはなりますが、時に子供っぽかったり、変人というレッテルを貼られてしまっている芸術家も少なくないように思います。
変人というのは一般という基準があって、そこから逸脱した人を定義する言葉であり、良い悪いの二元論的な話ではありません。
通常、変人に対しての一般という言葉は、多くの人間が摩擦を生じることなく生活する為に形成された社会通念を指すことが多いと思います。
幼少期から何年にも渡って教育を受けることで、人は他者との関わり合いやこの社会通念と呼ばれるものを学んでいきます。
もし、そんなことはお構いなしに自身の欲するものに純粋に向き合う人間がいたら、教育は社会が求める形に人間を矯正し社会へと送り出すでしょう。
しかし、その中のほんの一握りの人間は矯正を拒絶し、自身の形を保ったまま社会へ出ていきます。
これは社会の中では異形の者であり、変人と呼ばれる存在になっていきますが、この変人と呼ばれる人たちは自分の欲するものと純粋に向き合ってきた為に、一般と呼ばれる人よりも自身の深部に到達するクリアな道を持っています。
脳は悦びを求めます。
言葉を知る者は言語で相手に何かを伝えることが出来るように、作曲家は音楽を言葉とすることが出来ます。
先の2つの条件を満たす人が音楽を用いて脳を悦ばせるには、際限まで広がった深部の底の底まで到達する音の連なりを譜面に起こし、それを現実世界にある楽器というもので再現するだけです。
『芸術は二本足で立てるのか』で言及した通り、音は音として存在する為に必ず音色を必要とするので、作曲家が音を想起した時には既に何かしらの楽器によって、その音は色付けられているはずです。
また、音の連なりは当然線状のものではなく、音の重なり、リズムなど立体的なものとして、自身の最深部へと向かって太く、強く進んでいきます。
作曲家が自身の最深部を強く刺激された時に、その作品は名曲への資格を手にしてこの世界に生み落とされるのでしょう。
残された手紙や逸話から今日語られる、モーツァルトの性格を考えると、自身の欲するものに従順な印象を受けます。
そんなモーツァルトであったからこそ、自身の最深部にクリアに届く音が溢れていたのではないのでしょうか。
天才モーツァルトとは違えど、我々も同じ脳を持つ人間です。
天才を満たす音楽が、我々に何かしらの影響を与えるということはまったく考えられないことではありません。
効果は15分程しか持続しないということですが、『2台のピアノのためのソナタ ニ長調』を聴いてモーツァルト効果が現れるか、実験してみてはいかがでしょうか。
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