祖父の理想と歴史の重圧
宗教改革

メンデルスゾーン銀行の設立者を父に持ち、裕福な家庭で生まれ育ったフェリックス・メンデルスゾーン。
優れた音楽的な資質を有しながら、お金の為に作曲をする必要がないという誰もが羨むような人生のように思われます。
しかしメンデルスゾーンがユダヤ人であったこと、そして自分自身がユダヤ人であることを強く意識していたことが、苦悩の種となっていきます。
父アブラハム・メンデルスゾーンはドイツ社会の一部となるべきだという考えからユダヤ教からキリスト教へと改宗し、メンデルスゾーンというユダヤ人の名前ではなくバルトルディという姓を公式に採用します。
当然のように子供たちにはキリスト教の洗礼を受けさせました。
しかしメンデルスゾーンから見て祖父に当たる、モーゼス・メンデルスゾーンはまた違った考え方を持っていました。
モーゼス・メンデルスゾーンは貧困階層に生まれた為に就学できず、ほぼ独学で歴史に名を残すような偉大な哲学者にまで登りつめた人物で、キリスト教徒に蔑視されながらもユダヤの信仰を常に心に持ち、キリスト教徒もユダヤ教徒も平等に人間の尊厳を持って生きるべきだと説きました。
メンデルスゾーンは成長するに伴ってこの祖父の考えに共感を覚えるようになり、偉大な祖父を尊敬すると共にユダヤ教から改宗することを決めた父に反発を覚えるようになります。
しかしあくまでもメンデルスゾーンは洗礼を受けたプロテスタントであり、キリスト教やキリスト教徒を敵対視するようなことはなく、キリスト教徒とユダヤ人の共存を願いました。
ユダヤ人であるメンデルスゾーンが宗教音楽を作曲するというのは他の作曲家とは違った意味合いが生まれることが、こういった背景を知ることで分かると思います。
1829年、メンデルスゾーンは翌年に控えた『信仰告白300年祭』の祝典用の作品に着手します。
これはプロテスタントにとっては重要な意味を持つ、メランヒトンの信仰告白からちょうど300年という節目を祝うもので、メンデルスゾーンにとっても祖父の、また自身の理想をかけた大きな挑戦です。
作曲された作品が交響曲第5番、通称『宗教改革』と呼ばれる作品です。
しかし祝典の場で、メンデルスゾーンの作品が演奏されることはありませんでした。
これまではカトリックからの圧力で祝典自体が中止になったという説が有力でしたが、現在では祝典は開かれたものの、メンデルスゾーンの作品が演奏されなかったと言われています。
それはヨーロッパとユダヤ人のの歴史の重さに因るものだというのが定説となっています。
その後の演奏計画もうまくいかず、初演は2年後の1832年まで待つこととなります。
そして初演終了後にメンデルスゾーンはこの作品を封印し、二度と演奏しようとはしませんでした。
その理由は分かっていませんが、反ユダヤ主義の波に飲み込まれて長年正しい評価をされることのなかった自身の今後を占うような出来事です。
蛇足ですが作品を封印したことにより出版がメンデルスゾーンの死後となり、本来は2番目に書かれた交響曲なので交響曲第2番となるはずのものでしたが、交響曲第5番を冠することとなります。
普段生活する空気では感じることの出来ない、歴史の重みを感じる作品です。
優れた音楽的な資質を有しながら、お金の為に作曲をする必要がないという誰もが羨むような人生のように思われます。
しかしメンデルスゾーンがユダヤ人であったこと、そして自分自身がユダヤ人であることを強く意識していたことが、苦悩の種となっていきます。
父アブラハム・メンデルスゾーンはドイツ社会の一部となるべきだという考えからユダヤ教からキリスト教へと改宗し、メンデルスゾーンというユダヤ人の名前ではなくバルトルディという姓を公式に採用します。
当然のように子供たちにはキリスト教の洗礼を受けさせました。
しかしメンデルスゾーンから見て祖父に当たる、モーゼス・メンデルスゾーンはまた違った考え方を持っていました。
モーゼス・メンデルスゾーンは貧困階層に生まれた為に就学できず、ほぼ独学で歴史に名を残すような偉大な哲学者にまで登りつめた人物で、キリスト教徒に蔑視されながらもユダヤの信仰を常に心に持ち、キリスト教徒もユダヤ教徒も平等に人間の尊厳を持って生きるべきだと説きました。
メンデルスゾーンは成長するに伴ってこの祖父の考えに共感を覚えるようになり、偉大な祖父を尊敬すると共にユダヤ教から改宗することを決めた父に反発を覚えるようになります。
しかしあくまでもメンデルスゾーンは洗礼を受けたプロテスタントであり、キリスト教やキリスト教徒を敵対視するようなことはなく、キリスト教徒とユダヤ人の共存を願いました。
ユダヤ人であるメンデルスゾーンが宗教音楽を作曲するというのは他の作曲家とは違った意味合いが生まれることが、こういった背景を知ることで分かると思います。
1829年、メンデルスゾーンは翌年に控えた『信仰告白300年祭』の祝典用の作品に着手します。
これはプロテスタントにとっては重要な意味を持つ、メランヒトンの信仰告白からちょうど300年という節目を祝うもので、メンデルスゾーンにとっても祖父の、また自身の理想をかけた大きな挑戦です。
作曲された作品が交響曲第5番、通称『宗教改革』と呼ばれる作品です。
しかし祝典の場で、メンデルスゾーンの作品が演奏されることはありませんでした。
これまではカトリックからの圧力で祝典自体が中止になったという説が有力でしたが、現在では祝典は開かれたものの、メンデルスゾーンの作品が演奏されなかったと言われています。
それはヨーロッパとユダヤ人のの歴史の重さに因るものだというのが定説となっています。
その後の演奏計画もうまくいかず、初演は2年後の1832年まで待つこととなります。
そして初演終了後にメンデルスゾーンはこの作品を封印し、二度と演奏しようとはしませんでした。
その理由は分かっていませんが、反ユダヤ主義の波に飲み込まれて長年正しい評価をされることのなかった自身の今後を占うような出来事です。
蛇足ですが作品を封印したことにより出版がメンデルスゾーンの死後となり、本来は2番目に書かれた交響曲なので交響曲第2番となるはずのものでしたが、交響曲第5番を冠することとなります。
普段生活する空気では感じることの出来ない、歴史の重みを感じる作品です。
関連記事