王の名を息子に奪われた父

2016/08/16
王の名を息子に奪われた父
人物 雑学

成り上がり



ヨハン・シュトラウスと言えば誰もが、「ああ、美しく青きドナウやこうもりの作曲家だ。」と思い至るでしょう。
しかし1830年代にヨハン・シュトラウスの名を出せば誰もが違う人物を想起しました。

それが『ワルツ王』と賞賛されたヨハン・シュトラウス1世です。
皆さんが思い至ったヨハン・シュトラウスは1世の息子、ヨハン・シュトラウス2世です。

居酒屋の息子として生まれたヨハン・シュトラウス1世は、お店に流しのヴァイオリン弾きが来ることを楽しみにしており、流しがくると父親に見つからないようにテーブルの下に隠れて演奏を聴いていたようです。
その居酒屋が破産すると、追い討ちをかけるかのように父親は借金苦で自殺、母親は過労で病死します。
親戚に預けられたヨハン・シュトラウス1世ですが、奉公先を飛び出すと近くでヴァイオリンを習い、自身が見聞きした流しのヴァイオリン弾きとして生計を立てるようになります。

15歳になった年に当時人気だったミヒャエル・パーマーの楽団に入ると、彼の音楽人生に大きな影響を与える人物と出会います。
3歳年上のヨーゼフ・ランナーです。
楽団員の給料を自身の飲食代に使ってしまうようなルーズなパーマーに耐えられなくなったランナーはパーマーの楽団から独立すると、それを追うようにヨハン・シュトラウス1世もランナーの楽団に移籍します。

パーマーの曲を使えなくなったふたりは揃って音楽理論を学び、楽団の音楽を作曲していきます。
瞬く間にパーマーの楽団を上回る人気を勝ち得たランナーの楽団は、増え続けるオファーに対応することができなくなり、楽団を2つに分けることを決めます。
そのもうひとつの楽団を取り仕切る人物として白羽の矢が立ったのがヨハン・シュトラウス1世でした。

ライバル関係



仕事仲間であることは当然のことですが、貧乏な下宿生活を共にしていたふたりは親友とも呼ぶべき間柄でした。
しかし楽団を2つに分けたことが、この友情にひびを入れる結果となってしまいます。

組織のトップであるランナーの楽団よりもヨハン・シュトラウスの楽団の方が人気を得てしまったのです。
さらには結婚のための昇給のお願いをランナーに断られてしまうなど、徐々にその仲に暗雲が立ち込めるようになりました。

近年では今まで言われてきたほどの険悪な仲ではなかったと言われていますが(取っ組み合いの喧嘩をしたなど)、ワルツ合戦と称される競合時代の幕開けとなりました。
どのような分野においてもライバルの存在というのは自身を高める最高のファクターです。
この2名が競い合うように次から次へとワルツを作曲した結果、ウィーンではワルツが大流行となり、ウィンナ・ワルツとして世界中に広がっていきました。

ベルリオーズの幻想交響曲に秘められた殺人計画』で紹介したベルリオーズは世界のどこででもウィンナ・ワルツが聴けるのは「ひとえにヨハン・シュトラウス1世のおかげ。」と評しています。
一方ショパンは、自身の作品よりもワルツが優先的に出版される状況に触れて「ウィーンの聴衆の堕落した趣味の証明」と批判していますが、それだけワルツが人気を博していたということですね。

最大の敵



ライバルであったランナーが早世すると、ヨハン・シュトラウス1世の独壇場となり、『ワルツ王』の称号を欲しいままにします。
しかしすぐに次のライバルがヨハン・シュトラウス1世の前に立ちはだかりました。
実子であるヨハン・シュトラウス2世です。

音楽家が浮き草稼業であることを身をもって知っているヨハン・シュトラウス1世はあの手この手を使って息子の音楽活動を妨害しますが、息子も息子で父の手をかいくぐって音楽家としての名声を高めていきます。
デビューコンサートでは喝采を浴び、「おやすみランナー、こんばんはシュトラウス1世、おはようシュトラウス2世!」という有名な言葉が生まれました。
これからはヨハン・シュトラウス2世の時代だということを暗に揶揄していますね。

この言葉は現実のものとなり、『ワルツ王』とまで呼ばれたヨハン・シュトラウス1世のその圧倒的な名声は息子によって儚くも塗り替えられることとなりました。
今日では『ワルツ王』という称号はヨハン・シュトラウス2世に冠される言葉であり、ヨハン・シュトラウス1世は『ワルツの父』という称号に追いやられています。

ヨハン・シュトラウス2世のこの後の大活躍は次回に譲るとして、この父子を物語るエピソードを最後にひとつ紹介します。
ヨハン・シュトラウス2世デビュー後の1848年にオーストリア三月革命が起こります。
リベラルな体制を望んでいたヨハン・シュトラウス1世も、戦況を冷静に見極め革命派が優勢だと踏んだヨハン・シュトラウス2世も共に革命派に肩入れするような作品を発表します。
しかし自身が宮廷舞踏会音楽監督という体制側におり、君主制の打倒までは望んでいなかったヨハン・シュトラウス1世は一転、体制派を鼓舞する作品を発表するようになり、体制派が勝利を収めると『ウィーンの救世主』と呼ばれるようになります。
一方最後まで革命派に肩入れしたヨハン・シュトラウス2世は警察の尋問を受けるに至り、宮廷に嫌われてしまったことから父から宮廷舞踏会音楽監督のポジションを譲り受けることもかなわず、その後10年以上も父が務めた職には就けませんでした。

こんなところでも反目し合う父子だったんですね。

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